蒼い鳥は籠の中 第1部

「はぁ・・・」
デスクの後ろにため息が一つ。教科書がボーイフレンド?みんな言うけど・・・ってエビフライの持ち歌はどうでも良いよ。
ため息の主は振り返らずとも分かっているが、背もたれに体を預けて声のした方へ顔を向ける。

「そんなに不満なのか、千早」
「・・・満足では、ありません」
まあそう言うとは思っていた。要するに、俺が彼女にコンサートホールではなく幼稚園の庭を、まっとうな衣装ではなくサルの着ぐるみをあてがったことが不満なのだ。
俺だって鬼じゃないさ。できることならば望みに応えてやりたいとは思うが、いくら歌の才能があるからといって、まだまだ千早の知名度は低いし、上には上が居るのだ。いきなりホールに出られるもんか。

だいたいなあ、ここは歌手養成学校じゃなくて、芸能事務所なの。身も蓋もないことを言えば、うちが千早を雇ってるのは千早を一流歌手にするためじゃなくて、サービスを売って儲けるためなの。
その点分かってもらえないものかな。

「言い訳、なさらないんですね。そう、正直に言っていただいた方が、少しは諦めもつきます」
千早は眉を下げて、やれやれといった表情。
このやろう・・・絶対に自分の立場というものが分かってない。何が「言い訳しないんですね」だ。自覚は無いのかもしれないが、明らかにこっちを下に見ていやがる。
俺が汗水たらして取ってきた仕事に「役不足だが諦めて妥協してやる」という姿勢も癇に障る。むしろ感謝されてしかるべきだってんだ。

しかしまあ、仕事と割りきってやるだけのことはやる、という気になったのだから、これ以上何も言うまい。それなりに大きく歴史もある幼稚園の開園記念日だ、地域新聞の取材でも着てくれれば千早の名を売るいい機会。
もちろん紙面にサルの中身についての記事が載ることはないだろうが、それでもいつか、こんな小さなコネの積み重ねが千早をトップの座に押し上げてくれると信じたい。

一人うんうんと頷く。サルの中身なんてその辺のバイトの兄ちゃんにでもできる仕事であって、だからこそ競争は激しく取ってくるのも骨だったが、何千何万の観衆の前で輝く千早の姿を夢想すれば疲れも吹き飛ぶというもの。
よし、と気合を入れて、もう一度デスクに向かう。ちょうどその時だった。
「こんな事をして何になるんだろう」
千早、貴様って奴は。たった一言のつぶやきで、俺の苦労も幸せな夢想も何もかも台無しにしてくれたな。「諦めもつきます」と言っておいて、まだいじいじと文句を言うだけでは飽きたらず、せっかくの下積みを「こんな事」呼ばわりか。
「こんな」仕事に出られるのが誰のおかげか、どんなに有難いことか分かって言っているのか。
着ぐるみの中身などという低俗な仕事は嫌?自分にはもっと高尚な仕事が相応しい?じゃあどうぞ勝手に「高尚な仕事」をお探しになってください。見つかるといいですね。さようなら。

・・・というわけにもいかないよなあ、まさか社長に「担当アイドルの性格が気に食わないので替えてくれ」と言えるわけでもないし。だが、ここまで俺をバカにしてくれた礼は必ずしてやろう。
その高慢な鼻をくじいて絶望のどん底を味わわせてやる。その日までは、せいぜい孤高の歌姫を気取っているといいよ。

数日後。千早は「不満だが諦める」の言葉通りの働きをした。
つまりは顧客が怒り出さない程度の最低限の働き、ということで、傍目にもあまり乗り気でないことは見て取れるが、かといってソツがあるわけでもなく批判のしどころは見つからない、といった感じだった。
普段の俺なら「もっと楽しそうにだな・・・」などと説教の一つもするのだが、今日はそうする代わりに今後の方針を話し合うことにした。

「今日、見ていて分かったよ。やっぱり千早の本領は歌だ。俺もそこで勝負したい」
「本当ですか?では、次の仕事は・・・」
ぱあっ、と千早の顔が華やぐ。現金な奴だな。
「そこで今後の方針なんだが、明日から3ヶ月間レッスン漬けで歌唱力を鍛えあげて、その後受けられる限りの高難度オーディションに挑む」

千早は一瞬、呆気に取られたような顔をして、さすがに顔を曇らせた。
俺だって無茶苦茶を言っているのは分かっている。うかうかしていれば3日で飽きられ、忘れ去られるのが芸能界。その30倍もの期間、一切メディアに露出しないなんて正気の沙汰じゃない。
記者には見切りをつけられ、ファンは目減りし、オーディション審査員の心証にも悪影響を及ぼす。
それで落選したら二度と這い上がれなくなるかもしれない。だが、俺はさらに駄目を押した。

「レッスンもボーカル特化で行くぞ。ダンスとビジュアルは切り捨てる。それからアピールのタイミングも千早に任せる。すべて千早の思い通りの、千早のためだけのステージを作ろう」
「待ってくださいプロデューサー、それは少し極端すぎませんか?」
「少し?バカ言うな、これ以上ないくらい極端だよ。
 でも、千早が本当に望んでいるのは、この道なんじゃないのか?
挨拶回りだの、CDの売り子だの、着ぐるみで営業だの、そんな他事に気をとられず、全力を歌に注ぎこんでみたいって、そしてその歌で頂点を目指したいって、そう思っているんじゃないか?」
「・・・・・・」
しばしの沈黙。千早は視線を下に落とし、デスクの上に開かれた空白のスケジュール帳をじっと見つめている。
もしも俺の策を受け入れれば、この手帳見開き3ページが丸々埋まる。その重みを、自分の中で解釈するのに時間が必要なのだろう。
そこで考える時間を与えてはいけない。ひとつの葛藤を処理しおえる前に二つ三つと畳み掛けて、正常な判断を鈍らせる。

「もちろん千早が心配しているように、オーディションに落ちたら大変な事になる。アイドル生命も、歌手生命も終わりを覚悟しなきゃならない。」
「・・・・・・」
「だが、勝つことができれば――けばけばしく飾り立てたビジュアルでも、トリッキーな動きで奇を衒ったダンスでもない、純粋な歌声だけで勝負して、勝つことができれば、千早の歌は本物だって日本中に認められる事になる。」
「・・・・・・」
「はっきり言って分の悪い賭けだよ。まともなアイドルなら絶対に賭けないくらいに。だから賭けるか賭けないかは千早に任せる。どうだ、自分の歌声で『絶対』をひっくり返してみせる自信はあるか?」
賭けるか否かは千早に任せる。自分の言葉を反芻して内心苦笑する。実に体のいい責任放棄だ。

「あの・・・・・・」
ついに千早がおずおずと口を開いた。声が震えている。
俺は軽いエクスタシーを感じた。あの気丈な千早が、俺が与えた葛藤で声を震わせている。今や、千早は俺の罠にかかろうとしている。
だが、次に待ち構えていた恍惚はこの比ではなかった。
「・・・プロデューサーは、合格できると・・・思い、ますか・・・?」
この時の喜悦と征服感といったら!
さんざん馬鹿にしてくれた、この俺の判断を仰ぎたいと。それも自分の人生を変えかねない大懸案にあたって意見を賜りたいと。
たしかエントリーシートには「どんなレッスンでも耐えてみせる」とずいぶん威勢の良いことを書いていたと思うが、この「試練」には自信がぐらついたか。
この俺に後押しをしてもらうことが、断崖から突き落とされることだとも知らないで。
本当は「千早なら必ずできる!」と太鼓判を押して、哀れな笑顔を楽しみたい気持ちでいっぱいだったが、後々すべてを「千早が悪い」の方向に帰結させるためには下手なことは言えない。

「それは千早次第だよ。求道者の道か、ピエロの道か、俺は示すことしかできない。選ぶのは千早だ」
千早の目線がせわしなく動いている。キャパシティを越えて葛藤を押し付けられた理性は一時的に麻痺し、その靄から論理の糸を紡ぎ出す代わりに、感情に判断を丸投げしてしまう。
すると「純粋な歌声」「求道者」という中身のないイメージが千早を盲目にし、俺が仕掛けた罠の方へと推し進めてくれるはず。

「・・・少し、考えさせてくれませんか・・・。」
まずいな、この期に及んで理性が息を吹き返す時間を与えるのは得策じゃない。が、今すぐ決めろと強いるのは千早の警戒感を増すだろう。
「大事なことだから今すぐ決められないのは分かる。
 ただ、レッスンするにしてもスタジオの手配があるし、今まで通りの方針で行くならば次の営業の打ち合わせとかもあるから、明日中には答えを聞かせて欲しい。止まっている暇はない。」
「・・・はい。」
「重い話になっちゃってすまなかったな。家まで、送っていこうか。」
「いえ、結構です。一人で考える時間、欲しいので。」

なんて奴だ。先程の俺にすがろうとしていた千早は、困惑して視線さえ定まらなかった千早はどこに行った?もう回復して、自分の行先を見据えようとしている。この精神力の強さには空恐ろしいものを感じざるを得ない。
だが、俺の読みが正しければ、千早は「正しい」方向を、つまりは俺が求める方向を見据えてくれたようでもある。俺は緊張の糸を解いて、今日の分の書類をまとめるためデスクに戻った。

翌日、俺の携帯に届いたメールは、千早がこの賭けに乗ること、それも如月千早という存在のすべてを賭け金としてテーブルに載せることを伝えてくれた。そう来なくっちゃ面白くない。
それじゃあ千早、俺が少々手伝ってやるとしよう。「如月千早という存在のすべてを賭ける」その言葉を本当のものにしてやる手伝いだ。
俺と千早が知りあって、日はさして深くない。だが、千早が歌うことに対して異常なまでの執念を見せることは2,3日あれば分かる。自覚の有無にかかわらず、千早が歌こそ自分の居場所であり自身の証明だと思っていることは間違いない。
それでは、他に千早にとっての居場所は無いか?
家庭、学校、この事務所、芸能界など、歌ほど比重は大きくないにしても、この4つは挙げられそうなもんだ。これらを一つ一つ、千早から奪い取る。千早を「歌」という居場所へと完全に追い詰めるのだ。そして最後に・・・。

「ダイヤモンドはたしかに硬いが、衝撃を受け流すことができないから金槌で粉々に砕けるんだ」
コーヒーにスティックシュガーを注ぎながら、千早の精神が砂のように崩れ落ちる様を想像して、俺は鳥肌が立つほどの興奮を感じていた。

千早陥落作戦の第1段階、千早をオーディション対策に釘付けにすることは既に成功した。やるからには後戻りは許されない、途中で諦めれば虻蜂取らずになってそれこそ一巻の終わりだということを千早にはよく言って聞かせておいた。
続いて第2段階は、千早の居場所を奪って追い詰めること。その最初の標的は、千早の家庭にすることにした。もともと千早の家族関係が芳しくないことは聞き及んでいたけれど、もう一押ししておきたい。そのための手駒は手中にある。
世の中には物好きな奴らが居るもので、デビューしたてでまだテレビ画面に一度も映ったことが無いようなアイドルにさえ、ファンレターが届く。
ほぼ100%本人の手元には届かないと知っていて、それでも送ってくるのだろうか。ともかく千早にも何通か届いていたファンレターの中から特に強烈なものを選び出す。
どれくらい強烈なのかというのは、便箋のあちこちについた薄黄色い染みが物語っている。もっとふさわしい相手がいただろうに、なぜ千早に?まあいい。

中身の便箋だけを抜き出して新しい封筒に入れ、元の封筒は持ち帰る。こんな汚らしいものを自分の鞄に入れるのはひどく不愉快だが、事務所のシュレッダーに入れると見つかる恐れがあるから仕方ない。
あとは、あらかじめ盗撮しておいた千早の写真を便箋と同じ封筒に入れる。
たいして性能の良くないカメラで遠くから取った品なので、人相ははっきりとは分からない。だが、千早の両親か本人であれば、一目瞭然でそれと分かるだろう。
こいつを、千早の家の郵便受けに放り込んでおく。それだけで完了だ。千早の両親がどれだけ腐った輩なのかは分からないが、仮にも人の親であれば実の娘がこういう視線で見られていることに嫌悪感を抱かないわけがない。
しかも封筒には宛名や消印がない、ということは、ストーカーはこの家の場所を知っており、自分の足でこれを投函できる距離に住んでいる、ということになる。

これで千早は間違いなくアイドル活動に対して苦言を挟まれるか、愚痴をたっぷりと頂戴するだろう。そうはいっても、ここで活動をやめられる千早ではない。
道半ばどころか、満足に歩き出してもいないのだから。これで両親とのますますの乖離は避けられまい。
では万が一、この精液レターを目にしてもなお千早のやることに無頓着な両親だったら?そんな冷血な親であれば、こんな作戦を立てるまでもなく俺の目的は既に達成されていた、ということになるので問題無し。

千早本人が封筒を受け取ってしまったら、という問題はある。親に見せて相談するわけがないから、こっそり焼き捨てられるのが関の山だ。
まあそうなれば千早は、いつ何時2通目が家に届いて両親に見つかってしまうかと怯えながら過ごすことになるので、当初の目標とは違うが千早にプレッシャーを与える効果は見込めるだろう。
しかしなあ・・・せっかくの計略なのだから、できれば親の手に渡らせたい。でも家族関係が悪いとなると、お互い長く家を開けてることが日常かもしれない。どうやって居る日と居ない日を判別すればいい?
玄関が見える場所で貼り込むか?遠くから窓の灯りを見て人数を推測するか?いやいや、それでは本物のストーカーじゃないか。
俺は深く考えることをやめ、父親の方の生活リズムを「週末には妻と顔を合わせるのを嫌ってどこか外で過ごし、日曜の夜に帰ってきて身支度をし、月曜の朝に出社」
というものだと推定し、日曜の夕方に千早を帰した後、夕闇が辺りを覆ってから如月家を訪れて「爆弾」をポストに潜り込ませた。

次の土曜、千早は時間通りに事務所に現れた。ずいぶんとやつれ、ぐったりと疲れた表情をしているところから見ると、例の手紙は上手く親の方に渡ったと見える。
「どうしたんだ、疲れが溜まっているのか?」
「いえ、大丈夫です。レッスンを始めましょう、プロデューサー」
「大丈夫には見えないよ。家か学校で、何か有ったのか?」
千早は、家、という部分でぴくりと肩をこわばらせる。しかしすぐに平静を装った。
「・・・本当に何でもありません。
 そうですね、ちょっと疲れたかも・・・。けれど、まだ歌えます」
特別な問題は何も無い、ただの疲れだから気にしないで欲しい、ということか。どこまでも気丈だな。
「分かった。千早を信じるよ、けれど、無理はするんじゃないぞ。オーディションが大事とはいえ、一番大事なのは千早の体なんだから」
あくまで千早を気遣う。鍵になるのは千早の自由意志。俺は背中を押しはするけれど、奈落までは千早自身の足で歩いてもらう。
なるほど千早はよく頑張ってレッスンをこなしたが、後半になるとずいぶんミスが目立ってきた。疲れが注意力の散漫を招き、ミスが焦燥を生んで精神力を消耗させる。完全に悪循環に嵌り込んでいるように見えた。
「千早、今日はもう休んだ方がいい。いまの状態でレッスンしても疲れるばかりでプラスにならないんじゃないか?」
俺の言葉に千早は不本意そうな顔を見せたが、言い返す言葉もないらしく挨拶だけ済ませると肩を落として帰っていった。
どれ、この調子で次に進もうか。事務所からも千早を孤立させるための工作を始めるとしよう。

もともと、千早は事務所内でもあまり人付き合いをしない方だった。
最近では、皆が下積みのためのいわば汚れ役を受け入れている中で一人だけ夢追い人のようなことをしているものだから、目に見えた排斥はないものの内心では疎まれつつあった。
例外的にアイドルの一人、天海春香は千早と仲が良いようだったが、それもレッスンに専念したい千早の方から距離を置いているように見えた。
そこに俺が後押しをする。俺は月曜のうちに「仕込み」を行い、翌日千早が学校から帰ったくらいの時間を狙って、公衆電話から千早の家に電話をかけた。機械で声は変えてある。
「もしもし、如月です。」
「中央図書館、1階ロビーのロッカー10番。暗証番号は0225。」
それだけ言って電話を切る。今頃千早は当惑している頃だろうが、自分の誕生日を暗証番号にして変声機越しに挑発してくるような相手といえば、一人しかいないことに気づくだろう。例のストーカーだ。
中央図書館なら自宅からの距離もそう遠くないし、まさか襲われることもないだろう。その安心感から、きっと千早は動く。
そして指定されたロッカーを開けると、中にあるのは一枚の地図と別のロッカーの鍵。たらい回しである。この繰り返しで、千早を翻弄する。
ターゲットを疲れさせるのも、正常な判断を鈍らせる手法の一つだ。千早は労多くして益のない作業に疲労困憊するだろうが、それもそう長くは続かない。
最後のロッカーには、「次」があることを示す鍵や暗証番号はなく、繁華街を少し外れたカプセルホテルを示す地図。そこに行けば何かが分かる。この追いかけっこにケリがつく。
そんな根拠のない確信から、千早はホテルまでの最短距離を急ぐはずだ。その途中に、一件のラブホテルがあることにも気づかずに。
千早がラブホテルの前を通りかかったところで、シャッターが切られる。そして数日後、765プロには差出人不明の千早盗撮写真が送り付けられる。

事務員が「プロデューサーさんだけに」とその写真を見せ、「内々に処理しておくが、こんな事が二度と無いように」と釘を刺してくる。
そこを平謝りして、千早のためにも、事務所のためにも、アイドル全員に公開して自分たちの「姿」がいかに重要なものであるかを共通認識として欲しい、と申し出る。
もちろん、千早は後ろめたいことは何一つしていないと主張するし、俺もそのように事務所に説明する。それに、肝心の男がいない以上その手の雑誌に載せるにしても少しパンチ不足。だが、そんなことは問題じゃない。
ただでさえ疎まれている千早にこんな不利な材料が出てくれば、噂と疑念は一気に拡大して、いつの間にか「真実」を作り出してしまう。
他のアイドルたちは、千早への気遣い半分、腫れ物に触りたくない思い半分で、この件で千早をあまり批判しようとはしなかった。むしろ、「やはり千早もか」と納得する向きもあった。千早はこのことにいたく傷ついたらしい。
「なんて馬鹿な事をしてしまったんだ」となじられた方がむしろ嬉しかったのだろう。
神聖な歌のために体を売る、などということは、千早にとっては(少なくとも、「今の」千早にとっては)天地がひっくり返ってもありえないこと。
そんな行いを軽蔑しようとしないアイドルを逆に軽蔑し、また同時に自分がそんな行いをして当然と思われたことに憤慨し、ますます事務所から孤立して行った。
そして、事務所の代わりとなる自分の居場所をなおさら歌の練習に求め、レッスン時の千早の気迫は、レッスンスタジオのスタッフや他のアイドルを圧倒するほどに鋭くなっていった。

残りの要素については、俺が手を出すまでもなかった。
メディアはただでさえ動きを見せない上に、時が経って「期待の新人」という価値を失った千早に見向きもしなくなったし、千早は後のレッスンの時に学校の合唱部を辞めてきたことを告げた。
もともとロクに活動に顔を出さず、自分のためだけの練習に明け暮れていたというから、やはり学校でも人付き合いは殆どなかったのだろう。
これで千早の言葉は本物になった。「自分のすべてを賭ける」。あとはその賭けに負けてもらうだけだ。

俺はこの点でも根回しをしておくことにした。千早と同等の歌唱力を持ったアイドルを擁するある事務所に、千早がいついつのオーディションに出場することを予定している、と意図的に情報をリークしたのだ。
今まで対外的な動きを見せなかったため千早の動向を測りかねていたライバル事務所は喜んだろうが、さらに俺がこれこれの額の袖の下をもらえば、千早を不合格にできる、と持ちかけたときには狂喜しただろう。
能力は同等なのに確実に勝てる相手が一人いる、というだけで、オーディションはずいぶん楽になるものだから。
こうして俺は二人分の賄賂を携え、ボーカル審査員に話をつけに行った。普通は「受からせてくれ」と申し出るものだが、「落としてくれ」と言い出す者は中々いなかったと見え、最初は驚かれた。
しかし片方の事務所の了承を得て、もう片方に恩を売れる上に懐も潤うというなら、悪い話ではない。
ただし、一位と「いい勝負」をした上で負かしてくれ、と念を押しておいた。

3ヶ月というのは実に長いとあの日は思ったものだが、今になって思い返すとつい昨日のことだったように思える。今日はついに千早がオーディションに挑戦する日。もちろん通常のオーディションに参加すれば、千早は圧倒的に不利すぎる。
全審査でボーカル1位を押さえ、他2ジャンルで最下位を回避したとしても得点は15点。ライバルが確実にボーカル3位以上を押さえてきて、さらに1回でも他ジャンルで3位以上につければ、あっさりと負けることになる。
いや、負けるのはいいのだが、そんな負け方では千早の精神を追い詰めることはできない。
そこで今回は、1位のみに得点が与えられるルールのオーディションに出場した。おまえの歌でボーカルの頂点を極め、さらに1回でいいから、その歌う姿でビジュアル審査員の心までもなびかせてみせろ、というわけである。

前日、千早には休養を十分にとらせ、普段は欠かさずやっているという自主練も自粛させた。もっとも、どうせ密かに行ったのだろうが。
俺は千早に激励の言葉をかけた。

「今日まで本当にお疲れ様。色々辛いこともあったようだが、今日結果を出せばそれも終わりだ。悔いが残らないように、全身全霊をぶつけてこい。」
千早は、短く「はい」とだけ答えてステージに出ていった。あいつはこう激励されたら、本当に全身全霊をかけて勝負してしまう性格だ。そして全身全霊をかけて負けるということは・・・全身全霊を否定されることに他ならない。
千早は本当に全身全霊を賭けて歌った。
泣くことなら容易いけれど、悲しみには流されない。この道を選んだのは自分なのだから・・・。「蒼い鳥」の歌詞を自分に重ねて悲壮ながら力強く歌い上げる千早の姿は「鬼気迫る」とさえ形容できるほど張り詰めていた。
何者も寄せ付けない凛とした歌声。神々しいまでの立ち居振る舞い。見事だよ。言葉のつけようもない。
これなら勝てる、千早自身そう確信したのだろう。歌い終えた時の顔は達成感と充実感に満ちて、自信あり気に正面を見据えていた。

だが、すまないな千早。選んだのはお前でも、その道を用意したのは俺だ。

スポットライトが千早を通り過ぎ、隣のアイドルを照らす。千早は目を丸く見開いて、一瞬の硬直。そして・・・ぺたんと膝をついてその場に崩れ落ちた。口をぱく、ぱく、と動かしているところを見ると、何かつぶやいているのだろうか。
いつまでも力なく虚空を見上げているところを見ると、すでに心ここにあらず、側でオーディションスタッフが困惑していることも、自分がぼろぼろと涙をこぼしていることも気づいていない様子だな。
いつまでもそんなところに座り込んでいると邪魔になる。急いで助け起こしに行くと「うそ・・・うそ・・・」とうわ言のように繰り返していた。
ついつい俺の加虐嗜好が鎌首をもたげる。
「諦めよう千早。これが結果だ。千早の歌じゃあ、全国のファンはおろか、たった3人の審査員の心にも届かないってことなんだ。」
この一言が、「誰の心にも届かない」という部分が、千早の琴線をぶつりと断ち切ってしまったようだった。

「うああああああああぁぁっ!!」

喉の奥から搾り出すような叫びをあげると、千早はさっきまでの魂の抜け殻のような有様からは想像も突かないような力で俺を振り払い、どこかへ駆けていってしまった。


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どこをどう走ったか分からない。いつの間にか私は女子トイレの個室にいた。さっきまではあんなに走り回っていたはずなのに、今は体中が震えていうことを聞かない。
スポットライトが私の隣の人を照らした瞬間、数人の記者が一斉に視線をその子に移した瞬間、私の不合格が決まった瞬間。その景色ばかりが頭の中をぐるぐると廻っている。
寒い。体中が冷え切ってすごく寒い。きっと全身に鳥肌が立っている。それなのに気持ちの悪い汗が体中から吹き出して、肌着がべっとりとまとわりついている。自分の手で肩を抱き、体を縮こめても、寒気も震えも収まらない。
プロデューサーが私のこんな姿を見たら何と言うだろう。さんざんわがままを言って、迷惑をかけて。父と母はどんな目で私を見るだろう。あれだけ反発しておいて、なんの成果も残せなかったなんて。
学校の先生は。合唱部のメンバーは。事務所の人達は。春香は。そして・・・弟は。
平気な、はずだった。両親に不快な顔をされても、先生に小言を言われても、耐えられると思っていた。合唱部のメンバーと言い争っても、事務所の中で孤立しても怖くなかった。
ファン人数が減っていっても、メディアに忘れられようとしていても、気にはならなかった。今までは、歌があったから。
けど、歌っても、歌っても、誰にも届かなくなってしまったら、私に何が残るだろうか。

怖い。恐怖が、私にへばりついた。私を見る目が怖い。私にかけられる言葉が怖い。思わず手のひらで耳をぎゅっと押さえ、体を丸めて目を固くつぶるが、暗闇の中から無数の瞳が私を見つめてくる。
嫌だ、来ないでとどんなに頭を振り払ってみても、蔑んだ目、憐れんだ目、あざ笑う目は離れていかない。
体が震えて、ガチガチと歯が鳴る。冷たい舌で舐め上げられているかのように、ぞわぞわしたものが幾度も、幾度も背筋をせり上がってくる。
淀んだ、重苦しい空気が私にまとわりついてくるのを感じる。汗が一層吹き出して背中と額がぐっしょりと濡れる。
体中が押しつぶされそう。息が詰まって苦しいのに、はっ、はっ、はっ、という浅い呼吸しかできない。
そして、ぞわぞわがひときわ激しく背筋から頭頂に向けて駆け上がるのと同時に、下腹部がきゅう、と締めつけられるのを感じた、その瞬間。

「うぶっ?!」

いけない。吐いたりしては胃酸で喉が、なにより大切な喉が荒れてしまう。ここだけは何があっても守らないといけないのに。両手で口を抑える。
けど、食道を突き上げる奔流と全身を包み込む悪心の前には、無駄な努力でしかなかった。それはいとも簡単に食道を突破し、口の中を満たし、さらに行き場を求めて鼻を逆流した。
鼻の奥から脳髄へと眼球が裏返るほどの衝撃。そして――

「おぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼえ゛え゛え゛ぇーーーっ!!」

さっきまで「蒼い鳥」を響かせていた私の喉から、こんなにも汚らしい音が、こんなにも汚らしい吐瀉物が流れ出てくるなんて。
いっそ今この瞬間に誰かがこのトイレに乱入してきて、私を刺し殺してくれたらいいのに。一瞬の間になんどもそう願ったけれど、それは叶わなかった。
見れば便器の中には薄オレンジ色のどろどろとした粘液の中に、原型をとどめていない黄色や緑の固体が浮かんでいる。鼻の穴からは、ご飯粒がぬらぬらと光る粘液の糸を引いて二粒、三粒と垂れ落ちてきた。
ついに吐いてしまった。ヒトの喉の構造は知っているはずなのに、何故か自分の声帯が胃酸で爛れていく様子をイメージしてしまう。それだけは何よりも考えたくなかったことなのに。
一流のボーカリストなんてものを求めていた頃の自分が馬鹿らしい。今の私は惨めで、惨めで、惨めで、どこまでも惨めで。
いつの間にか、嗚咽が漏れていた。涙もぼろぼろ溢れて止まらない。
世界中の人間が私を見て笑いものにしている気がしてきて、それを振り払おうと頭を強く横に振ると、また下腹部が締め付けられる感覚と一緒に吐き気が胃の奥からせり上がってきた。

「げっ・・・げぇーーーーーっ!え゛え゛っ!え゛っ!」

二回目はほとんどが水分だったせいか、ずいぶん楽に喉を通過してきた。もういっそのこと、胃の中身をすべて吐き出して、少しでもこの苦しみを和らげたい。そんな思いにとらわれて、私はむしろ積極的に吐いた。
喉を傷めつける罪悪感はまだあったけれど、体の奥から魂までも吐き出しているかのような虚脱感に私は妙な安らぎを得て、目の前がすーっと暗くなるのに身を任せていた。

次に気がついたときには、私はタクシーの中にいた。
最初は状況がよく飲み込めなかったけれど、運転手の話では、プロデューサーから地図と料金を渡されて私を家まで送るよう頼まれたらしい。プロデューサーが自分の車で送ろうとしなかったことが有り難かった。
家の前でお釣りを渡され、タクシーを降りた私は、真っ先に冷蔵庫を開けに行った。事後策になるけれど、牛乳を飲めば多少なりとも喉の粘膜を保護できるはずだ。
マグカップに牛乳を注いで、喉に流し込む。

「んっ・・・」

え?

自分の体に戸惑う。
カップの牛乳を飲む。難しいことは何も無いはずなのに、今まで意識せずとも何千回としてきたはずなのに、できない。喉の奥につかえて、飲み込めない。
そんな馬鹿なことはない。口の中の牛乳をカップに戻して、二度、三度大きく息をしてからもう一度試す。
「そんな・・・」
やっぱり駄目だ。上手く喉を通らない。そんな、そんな。私の体はいったいどうしてしまったんだろう。物が飲み込めないなんて、絶対に普通じゃない。こんなの間違っている。
強引に、舌をぐっと持ち上げて、牛乳の塊を喉の奥に押し込む。すると気管の方に流れ込んでしまって、口の中の牛乳を吐き出して大きく咳き込んだ。なんて愚かなことをしてしまったんだろう。
喉を守るどころか、本当に声帯がある側の気管を傷めてしまうなんて。これでは嘔吐するよりなお・・・
そうか。
分かった気がした。私は、怖いんだ。胃に物を入れたらまた吐いてしまうんじゃないかと、心のどこかで恐れているから、物が飲み込めないんだ。
泣きたくなった。理由が分かったところで、それがどうしたというんだろう。今私がしなくてはいけないのは、喉を治して、また歌えるようになることだ。そんな簡単なことさえできない臆病な自分の心が、ますます情けなくなった。
自分の心も満足に扱えないのに、他人の心に歌を届けることなんてできるわけがない。
後になって思えば、このとき私の中で目的と手段が入れ替わっていたのだろう。喉を守るために牛乳を飲むというのではなく、ただ物を飲み込むことが目的になってしまっていた。
私は鼻をつまんで息を限界まで吐き、牛乳パックの注ぎ口に直接口をつけて、生まれて初めてのラッパ飲みをした。牛乳が口元から溢れてジャージを汚し、鼻からも少し吹き出してしまったけれど、なんとか飲み込むことには成功した。
けれど、達成感などはありはしなかったし、すぐに自分の心に嘘をついた報いが帰ってきた。
鼻から牛乳を垂らして半べそをかいている自分の姿を冷静に見つめなおすと、先程の惨めな気持ちが蘇ってきて、震えと吐き気までもが戻ってきたのだ。つくづく思い通りにならない自分の体に悲しくなる。

けど、思い切り吐けばまた気持ちよくなれるだろうか。

ふと浮かんだ思いに自分で愕然とする。吐いて気持ちよくなろうだなんて、ボーカリストとして、どころか人間としておぞましいことだ。気を確かに持たなくてはいけない。

でも、落ちるところまで落ちてしまえば、誰からも見放されてかえって楽になれるかも。

「だめっ!考えちゃだめ!」

思わず声に出ていた。体どころか心までも自分の思うままにならないだなんて。

・・・体も、心も?
それでは、今こうして考えている「自分」は何なんだろう。もしかして、今ひたすら否定しようとしている姿が、常に何かに怯えて震えている、嘔吐の虚脱感でほんのひと時の安らぎを得る私が本当の私なんじゃないだろうか。

「違う!私は・・・っ!!」

いつだったか、保健体育の時間にビデオで見せられた、過食嘔吐の常習者の姿が脳裏にちらついた。顔は隠されていたけれど、体はガリガリで青白く、叩けば折れてしまいそうで・・・・・・

「嫌!嫌あああああああああああああああ!!」

半狂乱になって泣き叫ぶ。その興奮が極まった時だった。

「――っ?!」

たった一口分だったけれど、ほんの小さな逆流だったけど、それは、まぎれもなく、嘔吐。

やっぱり自分はそういう人間なんだ。違う、違うとどんなに否定しようとしても、口の中の酸っぱい吐瀉物がそれを許さない。
私は言いようのない恐怖に襲われた。トイレで吐いた時の感覚と同じだ。呼吸が乱れる。息苦しいのに、思い切り肺に空気を取り込みたいのに、ごく浅くしか息が吸えない。
ならば思い切り息を吐きだして呼吸を落ち着けたいけど、それもできない。足が震えて立って歩くこともできない。体中が凍えそうに寒いのに冷や汗ばかりが流れる。
私は虫けらのように体を丸めて自室まで這っていき、毛布を頭からかぶって、嗚咽を漏らしながらじっと耐え続けた。コンピュータのように電源を落として考えることを止められない人間の体が、どうしようもなく恨めしかった。



  • 最終更新:2010-04-09 23:04:00

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